ふと、歌が聴こえたような気がした。
伏せていた顔を半ば無意識に上げ、その姿を目だけで探す。
……すぐに、空耳であると気付いた。この階層に彼女がいる はずがないのだ。
私は再び頭を垂れ、馬に揺られるのに任せた。ミナス・ティリスに入り、第六層を目指していた。

疲労していたが、頭の中では多くのことが渦巻いている。
先の戦いで失った部下達、撤退を余儀なくされた駐屯部隊、兄と守りきった西岸、しかし忍び寄る東の暗い影――。
身体は重く気だるく、けれど、私はこれからのことを考えていた。為すべきことは幾つもあった。
そんな中で、私はふと父のことを思う。まず、父に戦況の報告をしなければならない。
……あの方は、私の報告を聞いて、そしてその後、どのような言葉を投げ掛けてくださるのだろうか。
思うが、頭を振ってそれを打消し、私はそのことを考えないようにする。

微かに痛んだ胸を押さえようとして、懐にあるものに気付き、私はそれを取り出した。
春咲く花の花びらを模したその紙細工は、戦に出る前にもらったものだ。
兄を通してもらったものであり、まだ礼も言っていなかった。
手のひらの中のそれを見ていると、どのようなやり取りの中で兄と彼女がこの花を受け渡したのかが思い浮かぶ。
きっといつものような、他愛無い平和な時間の出来事だったのであろう。
私は自分でも気付かないまま、微かに笑んでいた。今日笑ったのは、この時が初めてであった。




馬を繋ぎ、報告に向かう途中で私は花の贈り主に出会った。
寮病院に繋がる通路へ向かうらしいは、その手の籠に摘んだばかりと思しき草花を山のように詰め込んでいる。
私を視界に捉えるなり、「ファラミアさん」、と口に出しながら駆け寄ってくる。

「今日お戻りだったんですね?」
「ああ。……は、薬草摘みか?」
「はい、ヨーレスさんから頼まれまして。さっき、薬草園から採ってきたばかりのを届けるところなんです」

そう言って籠を掲げるので、私は肯いてみせる。
彼女は最近になり、ごく簡単な手伝い程度のことではあるが、寮病院を出入りするようになったと聞いていた。
――私はほんの僅かに、を見下ろした。
私達が与えた衣服を纏い、薬草の籠を掲げた姿は何処にでもいる娘のようにも思える。
しかし彼女は、何処までも遠い国の娘であった。
名も、記す文字も、その手から生まれる紙細工も、聴かせてくれる歌のひとつひとつさえも、どれもが私の知るところではない。
彼女は未知でありながら、しかし、それでも私達と何ら変わらぬ人間だった。
そして私は、彼女と言葉を交わすことをいつしか好むようになっていた。
眼前に佇む娘を前に、私はそんなことを思う。
本当なら、ゆっくりと話がしたかった。しかし、今の私は先に父の元へ向かわねばならない。


「はい?」
「兄からこれを」
私は手を開き、紙細工の花を示した。
「礼を言うのが遅くなってしまったが」
「御礼を言われる程のものでもありませんが」

私の言い方を真似て、彼女は言う。私達は、互いに小さく笑った。

「ファラミアさんは、これから何処かに?」
「……父の元へ」
「じゃあ、わたし、これを届けたらすぐ戻って、お茶を準備しておきますね」

そう言って頭を下げ、そのまま寮病院に向かうという彼女を見送る。
と別れて、私は更に上層へと赴いた。
エクセリオンの白の塔、静けさが満ちたその大広間の奥に、その方はいる。




……遥か遠い記憶の底、母がまだ存命の頃の父を時々思い出すことがある。
今の父と同様、自分にも他者にも厳しい人であった。
しかし、まだ私が子供であったためか、父なりの愛情を感じ得たことも多くあったような気がする。
それ程、兄と私との扱いに差があったようにも思えない。
――いつから、こうなってしまったのだろうか。
考えても詮無いことを、私は考える。
母が早世した頃からだろうか、それともそれから後のことだろうか。或いはそうではなく、もっとずっと以前からなのだろうか。
私がミスランディアを師事していることも、父は快く思っていないと記憶している。それも、理由の一つであろう。
……この方は何故、あれ程までに灰色の放浪者を警戒するのだろうか?
以前から感じていた疑問が次々に噴出し始めるが、それも見据えられた父の眼の前に姿を消してしまう。
時間は、長いのか短いのかも判らなかった。
父の言葉は、形を持たぬ刃である。




私は父の前を辞すると塔を抜け、白い陽の光を浴びた。
雲に遮られた弱い日差しであるにも拘わらず、それは目を突き刺すような痛みをもたらした。
自分が何処を歩いているのかも、何処に向かっているのかも分からない。
心は遠くにあり、身体は自分のものではないようだった。
父の言葉が何度も自分の中で繰り返されていく。……私では、父の意に沿うことは永遠に叶わないのであろうか。
頭がひどく重く、響くような痛みを覚える。
大したことはないと思い込もうとしたが、しかし私は日陰に身を寄せ、遂にその場にしゃがみ込んでしまう。
額を押さえ、痛みが鎮まるのを待とうとしたところで、ふわりと肩に何かが触れた。

「ファラミアさん?」

ゆっくり見上げると、彼女がそこにいた。
心配そうにこちらを覗き込むは、私の肩から手を引くと屈んで私と目線を合わせる。

「どうしたんですか? 顔色、すごい真っ青ですよ」

すぐ近くですから、寮病院に行きましょう。
そう続けるの手を掴んで、私はそのまま半ば力任せに引っ張った。
声もなかった。私の腕の中に納まった彼女は、中途半端に両手を宙に浮かせ硬直したまま、ただ身を強張らせている。
自分が何をしているのか、判らないわけではない。
ただ、慰めを欲するほどに自分が弱くなっていることを、私はこの瞬間まで気付いていなかった。
……何と、力のないことだろう。
私は兄を支え、この国を護り、そして父に応えたい。それだというのに、今の私は何ひとつ叶えられてはいないではないか。
もっと力を得なければならない。もっと強くあらねばならない。
私はの身体をゆっくりと離した。

「……突然、すまなかった」
「いえ」

強張りがまだ取れぬ様子のまま、一言、彼女はそう言う。
僅かな沈黙のあと、取り繕うようには続けた。

「あのう、ファラミアさん、やっぱり何処か具合悪いんですよね。立てませんか? 誰か呼んできましょうか」
「いや」

私は頭を振った。
立ち上がることができる程度には、何とか落ち着いていた。

「大事はない。……すまない、今のことは忘れてほしい」
「…………」

は何か口を開きかけていたが、言いたいことが出てこないのかそのままもごもごと口を閉ざしてしまう。
私はそっと彼女に微笑むと、すぐに東に目を向けた。
立ち込める暗い影は、否応にも自分の為すべきことを思い出させた。

「ファラミアさん?」


私は彼女を遮るように言った。

「行ってくる」
「えっ」

何処に、と言いたげなに、沈黙を以って返した。
先程父から与えられた言葉を、頭の中で繰り返す。
父に報いるためにできることを、私はただするだけなのだ。

「心配することはない。また、すぐに戻る」
「…………」
「だから、

俯いた彼女に、私は一つだけ頼みごとをした。

「笑って私を見送ってはもらえぬか。そうしてもらえれば、私は嬉しい」

……自分は、どれだけ甘えているのかと心の中で思う。
強くあらねばと思いながらも、それでも何かに縋らなければ歩き出すこともままならない。
そしてあろうことか、私は、が自分の望むままに、望んだものを与えてくれるだろうと信じていた。
だから、
「――?」
何も言わずに口を閉ざし続ける彼女を私は訝った。
きっと彼女は、微笑んで見送りの言葉を掛けてくれると思っていたのだ。

「ファラミアさんは」

言葉は、いつもの彼女のものとは違った、低い温度を帯びていた。

「ファラミアさんは、それで満足ですか?」

見下ろした眼前、こちらを見上げるその顔は何処までも無表情で、私は一瞬、全身の体温が下がっていくような錯覚を覚えた。
刹那、目の前にいるのが誰なのか解らなくなるような感覚に陥る。
細められた彼女のその目は、私を見透かすようなそれだ。
私は凍りついたかのように、その場に立ち尽くしていた。

「ファラミアさんがそれで満たされるのならいいんです。幾らでも笑って見送ります。なんですけれども」

そこまで言うと、続きを呑み込むように間があった。
それでも、続いた。

「たぶん、わたしだと、ファラミアさんが本当に欲しいものはあげられないです」
「……何故、そう思う」
「だって」

擦れた声でそれだけ問う私に、彼女は言った。

「わたしは、デネソール候にはなれませんから」

そう告げる彼女は、決して無表情などではなかった。
ほんの一瞬、私にそう見えただけで、実際はそうではなかった。
そして彼女は、申し訳なさそうに続ける。

「ファラミアさん、……上手く言えませんけど、力になれなくて」

ごめんなさいとでも続けようとしたのだろう、けれどそれはかき消された。
もう一度その身体を抱き締めると、向こうもそれに応えてくれる。
傷付いた友をそっと慰めるような、そんなあたたかさがそこにあった。




眠りにつく時分になると、私はあの時の彼女を思い出すことがある。
耳の内に、もう既に覚えてしまった遠い異国の歌が流れる。
彼女の歌は、不可思議である。そしてそれは、彼女自身に似ている。
力になれないことをは詫びていたが、そんなことは決してなかった。
彼女とは出会って間もなかった、それにも拘わらず、黒髪の娘は私のことを解してくれていた。
彼女の歌を聴きながら、私は眠りたい。
耳に流れるこの歌が、完全に眠りに落ちるその時まで流れることを、私は願った。






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